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長与皿山窯跡(嬉里郷田尾)

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[ 長与皿山窯跡 ]
 江戸時代は、長与町は大村藩の領地「長与村」でした。このことから、江戸時代以降の長与町の歴史は、大村藩にかかわる人物や出来事などが数多く登場します。大村氏というのは、中世より大村を領土とした大名のことです。今の大村公園が、かつて「玖島城」という大村の殿様のお城があったところです。大村の一族は、大村喜前(玖島城の初代藩主)の父18代純忠の時代に大村湾一帯の領土を確立し、戦国大名としての地位を築きました。また、肥前陶磁器の一大生産地として知られる波佐見町も、同じく大村藩の領土でした。2000年に玖島城から、長与三彩が出土してニュースになったことがあります。そして大村喜前が朝鮮出兵から帰ったとき、いっしょに連れ帰った陶磁器の職人(李朝陶工)が、波佐見村の村木郷にある畑ノ原窯をひらいたとされます。ですから、そこで作られる焼き物も、大陸の影響を受けたものが作られます。そして、後にこの波佐見の職人がここ長与の地にやってきて、焼き物を作ります。このことから、長与焼きは技術的に波佐見焼のながれを汲んだ製品を作ることになります。

 窯の構造は、「階段状登り窯」といって、いくつもの焼き物を焼く部屋(焼成室という)が、この山肌の斜面を利用して階段状につくられています。学術的な発掘調査が、昭和48年と平成5年に行われましたが、平成5年の調査によって、焚口から窯尻までの長さが水平全長115mであること、そしておよそ25室ほどの焼成室をもっていたのではないかという事がわかりました。これほどの規模の窯は、この大村湾南部地域ではおそらくほかにはないと考えられています。この窯で作られた製品(長与焼き)は、遠くは大阪の淀川から、近くは長崎市立山の長崎奉行所跡からも見つかっています。

「郷村記」
旧大村藩が、天和元年(1681)以来180年の歳月をかけて、天保の改革に続く安政改革の一環として、最終的に文久二年に完成した、旧大村藩領東西両彼杵地方に対する詳細な農村調査書であると同時に、藩権力による一藩の総合調査書。全79巻より構成。

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