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長与の郷土芸能

■ 道ノ尾『獅子舞』
 道ノ尾獅子舞の起源は、保存されている大太鼓によって明らかになった。文政3年(1820)に胴が作られ、「天保」・「元治」に修理されたことを示す。
 記録が太鼓の内側にはっきりと墨書されており、起源は少なくとも189年ほど前から行われていたということが確かめられている。
 おどりは東長崎の中尾地区から伝わった説と長崎の小ヶ倉から伝わった説があるが、その後道ノ尾・高田越の人々の創意工夫によって改善されたものといわれている。
 現在道の尾、高田越で保存会ができており継承されている。明治時代から大正時代にかけて、長崎くんちに奉納踊りとして出演している、町内でも学校の落成式など出演が多い。
 獅子おどりの構成は、月の輪(銀箔)・火の輪(金箔)・玉使い・大太鼓1・小太鼓2(もらし)・獅子・笛・鉦(大2・小2)で、踊りは笛・太鼓・もらし・鉦等、はやしに併せて、月の輪・火の輪の踊りに始まり、獅子踊りになる。2人の玉使いの衣装は中国風で、獅子は頭と後脚2人1組で、はやしに合わせて耳かき・足ねぶり・尾こぶり等の色々な芸を取りまぜながら演じられる。踊りつかれて眠りこみ、玉使いに頭をたたかれて踊り狂い、大太鼓につけたボタンの花に狂いたわむれる様は、勇壮である。
■ 西高田「にわか」
 にわかの起源は、江戸時代から明治にかけて流行した即興喜劇・祭礼等の風流の趣向に発し、とくに島原・吉原などの廓の祭礼の練物に応用されて17世紀から18世紀初めの頃から盛んになった。
 明治時代には「改良にわか」等ができて興業し、今日の新喜劇や家庭喜劇の発祥をなした。また主に京阪で栄えたにわかに対し、江戸では歌舞伎の楽屋で茶くみ役の下級役者が趣向をこらして景物を出す風習から茶番が起こり18世紀後半から民間に広まった。このにわかは落語のように「落ち」がつく寸劇で、ぼて鬘をかぶり、おしろいをつけないというが特色であった。思うに文化文政時代は、国是として文芸・武芸が奨励され、一部社会では非常に華やかな風潮をかもしだしたものの、農民にとっては甚だ厳しい生活状態だったろう。主体性を発揮することの困難な農民は、これを藁人形に託し、時勢風俗を風刺し、見る人を喜ばせ爆笑させようとした余興であろう。
 西高田のにわかは、「人形からい」と言われるもので、明治30年代に陣野知一という人が諫早で行われていた出し物を伝えたと言われているが、その原型は熊本県小川町北小野地区に江戸時代より伝わる「おろろんべぇー」ではないかと思われる。これは、雨ごいのために神社に奉納するもので、人形はかすりの着物を着て、踊り手は頭巾を被った赤ん坊に扮し、笛や太鼓、歌にあわせて踊る。「人形からい」との共通点が非常に多い。
 西高田では、「人形からい」を長崎くんちに奉納したり、神社仏閣の祭礼や、新築祝いの出し物として住民総出で参加し賑わせたものである。現在では、郷土芸能大会や各種落成式、老人ホーム等で披露している。
■ 岡「浮立」
 戦国時代、龍造寺隆信が大友宗麟と戦 い、まさに敗れんとしたとき、佐賀の豪族鍋島平右衛門は、一族郎党に鬼の面をかぶらせ、笛・鉦・太鼓の音勇ましく大友勢に撃ちかかり敗走させたという。この戦勝祝いに笛・鉦・太鼓に合わせて踊ったことから浮立が起こったといわれている。
 岡浮立はおよそ200年の歴史をもつ行列浮立で、諫早浮立の流れをくむといわれる。昔から町の祝賀行事や雨乞い、稲の虫追いなどに催されてきた。岡浮立の伝承には岡郷民がこぞって参加し、俗に岡の千人浮立といわれてきた。出し物は先頭から順に、カサボコ・カラ・ヤバコ・ササラ・ネツヅミ・カケ踊り・太鼓・鉦となっており笛に合わせて9種類の演技が行われる。
■ 吉無田「獅子舞」
 口伝えによると文化文政の頃(1804〜29)、長崎深堀の阿茶さん(唐人)から伝授されたという説と、矢上中尾村から習ったという説がある。江戸時代は、戸数70戸に満たなかった吉無田郷で本浮立を仕立てることは困難であり、それにかわるものとして獅子舞を導入したのだろうと思われる。実際獅子舞は少人数で構成できるので、今に至るまで保存伝承されている。
 獅子は悪魔を払い、五穀豊穣・家内安全・お家繁昌を守るといわれ、旧暦10月13日氏神の麻利支天王神社の祭礼に奉納されるほか、雨乞・半夏・園・八朔節句など娯楽と親睦をかねて演じられた。戦前には長崎くんちをはじめ、大浦・諫早くんちにも出演し県内外に広く知られた。
 戦後になっても昭和23年上筑後町(現玉園町)、昭和24年大井町、昭和58年、平成3年、10年、17年、24年玉園町へと長崎くんちに出場した。
 昭和46年には、全国青年大会郷土芸能の部で優秀賞に輝き、52年には九州地区民俗芸能大会、55年には全国民俗芸能大会に出場している。それに伴って保存伝承にも力をいれ、地域ぐるみで後継者養成に努力している。58年の長崎くんちに25年ぶりに出演したとき、従来一頭だった獅子を二頭に仕立て、勇壮な踊りを披露して観客を魅了した。
 また平成10年の長崎くんちでは獅子を7頭にし、平成17年には子獅子を2頭登場させ獅子舞の新たな展開を図っている。
 獅子は一人が頭と前脚、もう一人が胴と後脚を受けもち、はやしに合わせて所作する。耳かき・駒ころび・蚊追い・花しぶり等を巧みに組み合わせて踊る。クライマックスは、大太鼓の上に飾られた牡丹の花に狂い戯れ、乱舞する二人の息の合った勇壮な演技で、肩車を組み大太鼓の枠を足場にして演じる曲芸に似た所作を行うところである。
■ 平木場「浮立」
 浮立は戦国時代に佐賀で生まれたという。その後、諫早地方から矢上を経て長与にも伝わったといわれている。およそ200年くらい前のことという。長与の浮立は、本川内・平木場・三根・東高田・丸田・嬉里・岡の各地区で盛んに行われた時代もあったが、現在では岡と平木場に残されている。
 平木場では、郷の出し物として昔から踊られていたが、特に学校等の落成式やかんばつ時の雨乞い、社寺の大祭等に出していた。昭和51年に平木場浮立保存会を結成し、会則を作って広く郷内より会員を募り、その保存に努力している。浮立は多くの部門から構成されるが、平木場浮立は汐くみ・弓鉄砲持ち・傘ぼこ・矢箱玉箱持ち・カラ・ササラ・かけ踊り・笛・鉦・モラシ太鼓・大太鼓の編成からなっている。それぞれの部門に師匠がおり、指導している。
■ 嬉里谷「鎖鎌踊り」
 正式名称を「志賀団七本調子道行」といい、古くから大村藩に伝わっているともいわれ、また佐賀から伝承されたともいう。
 父子3人で田の草取り中、道に投げあげた草の泥が通りかかった志賀団七の袴にかかり、怒った団七は父親を無礼討ちにてしまう。残された「みやぎの」と「しのぶ」の姉妹はなげき悲しみ、いつの日か親の仇を討とうと誓う。艱難辛苦の末に見事、志賀団七を討って本懐をとげるという、劇的な構成をもった踊りである。
 団七は、ざんばら髪に鉢巻をしめ刀をかざす。姉みやぎのは、白衣装に青の腰巻でなぎなたを使い、妹しのぶは桃色の腰巻で鎖鎌を使う。
 男の子の福助おどりと女の子の傘おどりは、「姉妹が本懐を遂げたことを喜んだ、近郷・近在の子どもたちの姿」ということである。
■ 「なぎなた踊」
 なぎなた踊りは明治時代前期、長与村に生まれた。明治18年には和田茂太郎氏が祇園祭の先きぶれとして、なぎなたを持ち行列に参加している。
 和田氏は、鞍馬楊心流棒術及び静流なぎなたの使い手であり、16歳の時長与に代々伝わる上杉家楊心流の道場に入門、上杉八百八氏の門弟となっている。18歳の時には早くも棒術の皆伝を授かった。更に現長崎市馬町の道場において、静流なぎなたのわざを会得し、祇園祭に参加したわけである。
 この踊りは、なぎなたに棒術をとり入れたもので、一番基本、二番かただすき、三番すけじり、四番花車となっている。昭和10年頃までは、若衆(青年)1人ないし2人で祇園祭の先きぶれをした。戦後は少年が主体となり、一番から四番までの型を守っている。
 行列は参加者が10人、20人の多数となり、7月の祇園祭におけるお下り・お上りに道中踊りとして今日に至っている。なぎなた踊りは華麗にして勇壮闊達、少年たちのいでたちも誠に凜々しい。武術をとり入れたなぎなた踊りは、長与で生まれ育った長与町の郷土芸能として誇り得るものと思う。
■ 本川内「琴の尾太鼓」
 本川内郷は木場・大越・横平の三自治体から成る長与ミカンの主産地で約150戸。地区にはかつて本川内浮立があり、明治末期に途絶えたが、「大太鼓」と「もらし太鼓」は地区集会所で保存し、盆踊りなどに使っていた。昭和62年7月にこの太鼓を生かして和太鼓による組太鼓を編成し新しい郷土芸能「琴の尾太鼓」を創生した。二つの古太鼓の張り替えの段階で元禄10年(1697)300年前の製作と分かった。2尺5寸(76センチ)の大太鼓の胴の内側には「元禄拾壬年正月吉日、摂州大坂渡辺村、河内屋吉兵衛、正治」のほか、享保、寛保、安永、天明、明治、大正の年月と太鼓屋のところ、張り替え人の名前が記されており、今回の昭和の張り替えで8回目となる。太鼓の張り替えを石川県松任市の浅野太鼓店に依頼したが、「創業400年になるが元禄年代作の張り替えは2度目、もう一つは元禄14年なので、この太鼓が現役では最古文化財もの」との評がある。
 西暦79年、今を去る1930年前、神功皇后が国を治めるため(三韓役)この琴の尾岳で本陣を張られ、一夜を明かされた。作曲にもその遺跡を取り入れた「琴の尾太鼓」、のろしを上げ長崎から大村城下へ知らせた「のろし太鼓」、長与川の源流から湧き出た水が谷川となり、やがて大きな川となる様を曲にした「長与源流太鼓」、その他「祝い太鼓」がある。
■ 斉藤「竜踊」
 竜踊は、「長崎くんち」の奉納踊として大変有名であるが、江戸時代の享保年間(1716〜1735)に本籠町の人々が隣接する唐人屋敷から習いうけたもので、今日までそれが伝えられている。
 長与では明治時代になって岩淵神社の祭神である竜神をまつるためこれを取り入れた。竜の頭は長崎市籠町から譲り受け、竜の胴体や使い手の衣裳は籠町や滑石のものを参考にして長与で作った。振り付けや玉使いなど最初は滑石に習ったという。
 戦後このときの竜体を大修復していろいろな祝事に何度も出ていたが傷みが激しく、昭和57年関係者が協議の結果全く新しい竜をつくることになり、製作を現在長崎市滑石で竜作りをしている田中常治氏に依頼した。現在の竜はこれである。
 演技の内容は、片手使い・双手使い・玉かくし・胴抜けの4通りの芸を連続して演じ、特に頭と尾が常に同じ状態で動き、竜使いの機敏な動作と竜の大きな口より火を噴き煙りを吐く様は、特異かつ見事な演技で、多くの人々を魅了する。
■ 舟津「川船」
 出で立ちは、長崎くんちの川船になぞられているが、実際には、根曳き衆がうたう祝い唄を奏上するのがねらいといわれる。
起こりは、舟津に網元の吉岡政太郎という人が、明治20年に新居落成の折、大太鼓を購入して「川船ばやし」を披露したのが始まりと伝えられている。詞や節は、紀國屋文左衛門の壮挙にあやかったものといわれ「沖の暗いのに白帆が見える、あれは紀の国ミカン船」と唄われるものに合わせている。それ以来、この詞と節で唄われ、祝事があると、この大太鼓を貸し出し、川船ばやしを唄って喜び合ったといわれる。しばらく続いたが、明治40年頃この詞では当時の村や郷にふさわしくないということで、中山九平氏が作詞し直したのが唄い継がれてきた。
 現在唄われている「大漁ばやし」は、昭和33年の松野伝氏が役場の庁舎落成を記念して作詞したものである。また、このとき網を打ち魚を捕る振り付けが新たに加わった。
 現在使われている川船は、昭和63年、現役場庁舎落成記念、郷土芸能大会出場のおり新船を建造したものである。