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現地は、標高90mの丘陵で、東西約150m、南北約100mを計ります。今は、森になっていますが、土塁・石垣・堀切などがのこっています。土塁とは、城への敵の侵入を防ぐために築かれたものです。「郷村記」の記録に天文年間(1532〜1555)に長与権ノ助(※)が築いたとされています。(※「権ノ助」という人物が出てくる資料は今のところ「郷村記」のみです。「駿河守純家」、その子「権平」、その弟「純一」などの名前はありますが・・。)
この城の遺構調査の結果概要は次のとおりです。
主郭標高 92m、比高 60m
城域 東西150m、南北50m
遺構 主郭、出郭、二ノ郭、土塁、段築
この城は、万が一の事があった場合を想定し、非常時に備えるために前もって構築されたのではないかとみられています。しかし、実際にはそのような非常時は起きなかったと言われています。
そのころは、戦国中期で騒乱期の真っ只中にあたります。長崎県内の戦国時代の城の土塁は、緊急時につくられるため、その構造はわりあい貧弱なものが多いとのことです。石積みのものや、外部が石積みで内部に土砂を混入するという構造のものが多く見られ、規模は1mから1.5m前後のものが大多数だそうです。
ところが、中尾城の土塁は、この時期の城の土塁とは例外的で、平成4年におこなわれた発掘調査では、土をたたき締めて幾重にも重ねるという本格的なつくりをしていたことが明らかになりました。これによって、大変貴重な遺構だとみなされ、町の指定遺跡となっています。下幅で4m、上幅で約1m、高さ2.5mで、中世の城の中では、規模もかなり大きなものに属します。外部傾斜面の勾配は45度、土塁頂部への侵入を難しくさせています。
文献記録だけをそのまま信用すれば、この城がつくられたのは戦国期にあたりますが、この土塁の凝った造りから考えれば、もっと古い時代のものである可能性も考えられるという意見もあります。
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詳しい構造 |
まず、一番上の地面(表土)を、岩盤まで掘り下げます。そこに、黄褐色の粘りのある土を入れ、その上に、おなじく粘質の灰黒色の土が観察されたそうです。これは、この灰褐色土が叩き締められたことと、叩き締めの時に、水分、それも塩分がはいった水を打ちながら、表面を叩き締めていったために、その土の層が長い時間の間に灰黒色に変化していったと考えられています。この土塁はこれが、6枚観察されたので、6回くりかえして積み上げられていることが解りました。
長与には、中世(鎌倉・室町時代)の山城はこのほかに「東高田城」「西高田城」「唾飲城」があったと記録がありますが、なかでも「中尾城」はとくにこの「土塁」の構造において、注目されている遺跡です。
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山城(やまじろ) |
平地にある「平城」や「平山城」に対して、山城の名で呼ばれます。中世遺構の城郭において発達したもので、山梁を利用し、築城しており、険しい山道も多く、また断崖や谷間も多いものです。
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