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ここは長与町と多良見町との町境に位置しています。ここは諫早市(旧多良見町)の管理する遺跡ですが、かつてはおなじ大村藩の領内ということで紹介します。
烽火台とは「のろしだい」ともいいます。「のろし」とは外敵に備えて警戒する信号の役割を果たした「通信施設」です。「のろし」自体は、その起源は古くて、「日本書紀(720年に完成。神代から持統天皇にいたる皇室中心の国家成立史)」にも登場します。
古代より行われた伝達方法を、徳川幕府は島原の乱(1637〜1638年のキリシタン農民の反乱)を平定した後、復活させ、寛永15年、長崎および鍋島・深堀・諫早・大村・島原・平戸・福江の各藩にこういった烽火台設置を命じたとのことです。長崎県内には、17台の烽火台が確認されていますが、「のろし」にまつわる事件として、1808年にイギリスの軍艦「フェートン号」がオランダ国旗を掲げ、長崎港に不法侵入し薪・水・食料などを強要したいわゆる「フェートン号事件」が起こりました。この当時は、佐賀の鍋島藩と福岡の黒田藩が隔年で長崎港の警備にあたっていましたが、このときは、佐賀藩が警備をおこたり、何の抵抗もなくオランダ商館の書記2名を拉致されてしまったため、この責めを負って長崎奉行松平図書頭が自害してしまいます。そしてこの事件を契機に烽火台の見直しがなされました。
ここの「のろし」は長崎で緊急事態が発生したとき、佐世保市針尾のほうに伝えるために作られたと文献にあります。長崎県南部全域を眺望できるこの地は、通信の中継地点としては最適の地であり、大村藩玖島城も眼下に見えることからこの地点に設置されたと考えられています。
しかしながら、霧が深いときは見えにくく、文化6年(1809)以降廃止され、飛脚による通報に切り替えていったという記録があります。昭和62年に多良見町が行った発掘調査では、薄い炭の層が一層だけ確認されたことから、おそらく1回は使用されたのではと判断されています。(また、このような「のろし」跡などのような性格を持つ遺跡と、「携帯電話のアンテナの設置地点」は、大体一致することが多いそうです。ここも例外ではなく、北側には現代の通信設備である「無線中継場」があります。通信に見通しのきく立地条件を選ぶのは、時代が変わっても同様なのでしょう。)
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